「佐藤彦五郎と土方歳三の姉ノブ直系子孫」が運営する資料館ブログです。佐藤彦五郎新選組資料館HPが替わりました。新しいHPはリンクから。またはこちらへ http://sato-hikogorou.jimdo.com/
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近藤勇の肖像写真は、どこで撮られたか?
私は、兼ねてから、近藤勇と松本良順は 同じ敷き物の上で、写真撮影をしているので おそらく、写真屋さんが出張して 松本宅で撮影をしたのではないかと、思っておりました。 もし、そうであったとすれば、歳三もその場に居たのではないかと…。 ただ、その敷き物の処での歳三の写真は、現時点ではありません。 撮ったのだとしたら、大変興味深い貴重な写真です。 我が家に残された近藤勇の腕を組んだ写真は 慶応4年に、近藤自身が持参したものと伝わっております。 彦五郎日記の読んでおりますと、 慶応4年、1月20日(付紙)に、 彦五郎が松本良順宅を訪れ、近藤勇、歳三も居合わせ 朝より八つ時頃迄、噺したとの記述があります。 もしかしたら、この頃、近藤写真が撮られたのではないでしょうか。 PR |
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「第2回新選組を語る会」に行って参りました。
JR板橋駅前の近藤・土方の墓所にお参りした後、会場へ。 宮川豊治氏、宮川清蔵氏、井上雅雄氏とご挨拶をさせていただきました。 尚、小島政孝氏は、トークショーの時、駆けつけて下さいました。 土方家、沖田家は所用にて欠席との事でした。 トークショーでは、宮川氏、お二人のお話の後、井上雅雄さんの予定でしたが、「雅雄様、俳句・短歌コンテストの景品を持って来ます」の言葉を残したまま、席を立たれ、 お戻りになるまでの間、繋ぎで私にふられ、とりとめもない話しで失礼いたしました。 その後、松本良順氏のご子孫・松本和彦氏の大変貴重なお話がありました。 『良順氏は新選組の事、歳三の事を常に考えていた。 歳三と命を共にするとまで… 歳三の説得により、医療に専念した』…等々 本当に感動いたしました。 その後、親睦会での、ご子孫、ファンの方々との楽しい時間はあっという間でございました。 また『新選組を語る会』でお会いいたしませう。 P.S. 今年の『彦五郎忌』は10月12日(日)となりました。 |
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2008年
最終章(壱からお読みください)源三郎さんの御首探訪 一週間程経った15日の土曜日、今回の京都での事についての報告、墓参が行われた。 今回、井上源三郎さんの首級を探しに行った一行5名と、京都に同行する筈だったが、風邪のため参加できなかった大学院生の女性、功労者である日野ボランティアガイドの市川氏、土方歳三資料館長の土方陽子さんとお孫さん、郷土資料館の方々が集まった。 午後3時、井上家、また谷家の墓所である宝泉寺へ。 井上家のお墓で、井上雅雄さんの般若心経を唱えていただいた後、お参りさせていただいた。「郷土と新選組を愛する皆々様のお陰で、本日、この時、井上源三郎さんの御霊は日野に帰って参りました。」 そう、やっと源三郎さんは此処に帰る事が出来たのだ。 出迎えたのは、松五郎さん、泰助さん、佐藤道場で共に汗を流した歳三、そして彦五郎とのぶ。ふと、頭を過る。みんなの笑顔がここにあることだろう。 明日16日は、郷土史研究家・谷春雄さんのご命日。皆さんでお参りさせていただいた。ご子息の谷享司氏が「ケイおばあさんが言ってた欣浄寺はありました」と報告された。 井上源三郎さんの御霊が帰って来たことはとても嬉しい。 |
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『福子・西遊紀行』
〜(源三郎さんの御首探訪) 10日 京の朝は早い!・・・私の朝が早いのかしら?今朝も早く目覚めてしまう。 京都駅近くを散歩。 三日目、最終日となるが、本日の目的は井上源三郎さんの首級探しである。 壱の巻でもふれたが、曾祖父・俊宣は、書家であり、医者でもあった本田退庵との三カ月に及ぶ旅をした。 それを『西遊紀行』と題し書き残した文書の中に、『京都では近藤勇の首塚を探した…』の下りが記されてあるのだが、何の因果か、私も郷土の皆様と井上源三郎さんの首級を探す旅となった。 私たち一行五名、そして合流した土方愛さん、また途中から、井上雅雄さん、宮川清蔵さん、天然理心流の方々、今回の件で大手柄だったボランティアガイドの市川氏を含めた十数名が揃い、目的を達すべく出発した。 京都駅からJR奈良線に乗り、東福寺で京阪電鉄に乗り換え、京阪淀駅へ。 そこから目的のお寺へ着く。 欣浄寺のご本尊を引き継いだお寺であり、安置されている地蔵菩薩像を拝見させていただきご住職の話しを伺う。予め、伺う旨はお伝えしてあったが、大人数にも関わらず、懇切丁寧に説明して下さった。 私が「お参りさせていただけますか」と伺うと、ご住職は快く承知してくださった。 ご本尊にお焼香させていただいた時、誰かが傍にいるような・・・何か不思議な感覚にとらわれた。 次は、妙教寺に行く。 事前に原田氏がアポを取っていたので、いろいろと用意していただいてあった。まず、本堂で松井住職から、戊辰の役の淀での話や戦死者の慰霊供養を毎年二月四日に行なっている事、会津藩士の末裔の方々が毎年、慰霊祭に来られていた事。 妙教寺の前から出土した刀や、本堂に飛び込んで来た四斤砲弾の話を伺った。その後、井上雅雄さんから、宮川清蔵さん、土方愛さん、私と、ご本尊にお焼香させていただいた。 本堂の外壁を破って、柱を貫通し、更に内壁をも破った、砲弾痕を見せて頂く。庫裏に移動し、錆びた刀、四斤砲弾、淀城下の絵地図、妙教寺の隣りにある欣浄寺と同じ浄土宗の寺に保存されていた、欣浄寺の名前が刻ざまれている、真鍮製の茶托のような形のものを見せて頂いた。 谷氏が、錆びた刀の検証する。 目測一尺九寸位の長脇差し。戦闘に使ったと考えられる痕跡を発見する。 原田氏が四斤砲弾の検証する。明らかに、信管を着けずに発射したものとのこと。外壁から、柱、内壁の進入跳弾角度から、住職が言われていた、以前に検証した方が威力が無くなって来た状態で飛び込んで来たと言われていた意見を否定。因みに四斤砲は甲陽鎮撫隊も装備していた。前装式施錠砲。幕軍、官軍、両軍が使用していた大砲(支援火器)である。 四斤とは、4ポンド砲弾から来ているそうだ。 妙教寺の後、桂川の堰堤沿いに愛宕茶屋へ向かう。 戦没者の冥福を祈り井上雅雄さんから順番に線香をあげた。 欣浄寺跡地に向かい、うどんやさんで昼食をとる。現地の方にお話しを伺い、皆、各々、源三郎さんの御霊に祈り、記念撮影をする。 淀千両松の戦没者慰霊碑に向かう。 宮川さんと井上さんの般若信教の読経に合わせ、皆で戦没者の冥福を祈り合掌。 私は、読経中、戦没者の方々の悲しみが感じられ、始終涙が止まらなかった。 最後に、今回の二泊三日の旅行を、始めから計画しアレンジしてくださった、 谷氏、原田氏に心から感謝いたします。 今回、井上源三郎さんの首級の場所を確認できたことについては、何より、市川氏の功績によるものである。 |
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2008年3月11日
「福子・西遊紀行』〜山南忌〜 弐の巻 (山南忌、源三郎さん首級探訪) 9日、山南忌当日。 山南忌出席での京都入りであるが、井上源三郎さんの御首探索も今回の大きなテーマで、日野ボランティアガイドの市川氏からもたらされた情報から始まった。 私たち5名は数週間前から念入りに計画を練っのだが、それは偏にメンバーの原田氏をはじめ、谷氏、高橋氏のご尽力のお陰である。 5時起きの体内時計の目覚ましで起きてしまい、折角なのでひとり、西本願寺まで散歩に出る事にした。昨日の足の疲れも無く、見事に復活!まだ明けやらぬ京の町へ踏み出した。人、馬、駕篭、…否、車の通りも殆どない町並みは、昨日とは全く趣きが違う。 西本願寺では異国人家族になぜか出迎えられた。カナダから観光で来たという。 話ついでに聞くと、新選組も、サムライも有名で、娘さんはマンガ『風光る』のファンだとのこと。『風光る』といえば、原作者、渡辺多恵子氏は『彦五郎とのぶ』を登場させるにあたり、スタッフと共に、当資料館と日野宿本陣(彦五郎邸)に取材にいらした。 早朝から気持ちのよい出会いとなった。東本願寺に立ち寄って、ホテルに戻った。私たち一行に今日到着の土方愛さんが合流し、旧・前川邸へ向かう。 宮川清蔵さん、井上雅雄さんもいらして、天然理心流の演武を披露する予定だ。前回の山南忌は都合で出席できなかったので、今回初めて参加させていただく。大河ドラマの影響もあるのだろう。さわやかな山南さんだったので、人気も手伝ってか女性の墓参が多い。 これだけ大勢の山南ファン、主催された田野家も大変な事だったでしょう。 我が家には山南敬助のエピソードがあるので、ここに紹介したい。 私の先祖が書き残した記録の中に、次のように山南が登場している。 『日野の剣術は増々盛んになり、近郷の有志は競って我が邸内の道場に集まり、朝食前から竹刀の音がやかましく、彦五郎が指南していた。なを月一回程、江戸より近藤勇が山南敬助、内弟子の白河浪士なる沖田総司という若者を共に連れて廻ってきた。』日野に来ると、数日、佐藤家に泊まって近隣の道場を廻っていた様子が伺える。 山南の呼び名だが、日野宿では『さんなん、さんなん』と呼ばれ、子供さんにも人気だったと伝わっている。 田野氏が山南忌(さんなんき)と称して下さったことにも、感謝したい。 また当資料館には『山南の死を彦五郎に伝える』沖田総司の手紙が展示してある。 沖田総司の書状は年賀状の代筆も含め七通しかなく、この『山南の死を〜』の書状は大変貴重な資料だ。 この他にもう一通、総司は書簡を彦五郎に送っている。 辛いながらも山南の死を知らせているのだが、その流れるような墨文字を辿ってゆけば、山南を敬愛していた総司の気持ちが偲ばれるだろう。 予約してあった処で昼食をとり、午後は、多田氏の講演会、 (多田氏とは、前日、旧前川邸で丁度お会いすることができ、いろいろとお話させていただいた) 司太夫さんの奉納の舞、天然理心流の演武と続き、見ているこちらも楽しませて頂き、素晴らしい会となっていった。 最後の懇親会では、新人物往来社の大出俊幸氏、結城しはやさん、各地の同好会、新選組ファンの皆様とお会いできたこと、大変楽しいひとときを過ごさせていただき、感謝いたします。 続く(次回は10日、源三郎さん御首探訪)『福子・西遊紀行』 |
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2008年3月12日 第2回〜山南忌〜 【壱の巻】
(京の町歩き、新選組隊士を追って) 山南忌の招待を受け、出席させていただいた。 前日の8日朝に京都入り。ホテルに荷を預け、Dパックひとつでゆかりの地を歩くこととなった。 私たち一行五名は、谷氏曰く「京の町は、自分の足で歩かなければ距離感が掴めない」を合言葉のように、何度もこの言葉を心に刻みながら、覚悟を決め、山南忌主催の田野家(旧前川邸)を目指した。 最初に向かったのが不動堂。最後の屯所となる不動堂村が近いので、隊士たちもよく訪れたであろう。 次ぎの油小路で伊東甲子太郎の遺体と鉢合わせ。神妙に手を合わせていると一行から遅れをとってしまった!山南走りで?追い付いたが、呉々も油断なりませぬ。 伊東甲子太郎絶命の地、本光寺から西本願寺へ。 佐藤彦五郎の長男・佐藤俊宣が、本田退庵(歳三が書を習っていた本田家)と共に、島田魁と会った西本願寺太鼓櫓。 その後、島田魁宅周辺から歩いて歩いて、島原大門へ。輪違屋、角屋へと流れる。 この辺りの佇まい、建物から発せられるものに幕末の匂いが感じられて仕方なかった。そして、歳三がお姉さんのノブに送った景徳鎮の茶器が、ふと、頭に浮かんだ。これは、私の中に流れている血・・・たぶん、そういうことなのだろう… 島原西門跡、朱雀通、新徳寺から壬生寺へ。 壬生寺は五年前、大河ドラマで藤堂平助役をやった中村勘太郎氏がお参りに来ていて、偶然お会いした所だ。 旧前川邸に着くと、明日の準備で忙しい中、田野氏のご案内でお蔵を見せていただいた。 ちなみに私は二度目あるが、今回は建築にも詳しい方もご一緒なので、初回見逃していた所も、じっくり拝見することができた。田野家にゆっくりさせて頂いて少々休息できたが、昼過ぎ、また歩いて四条通りへ。本間清一郎、久坂玄瑞の痕跡を通り抜けると、今度は佐久間象山の遺体とも遭遇!またもや手を合わせつつ、次は池田屋へ。 『池田屋騒動之址』 今やこの碑だけが池田屋の場所を確認できる手立てだ。 そこに建っているパチンコ屋さんも、戦いが終わったのか廃業していた。 池田屋跡近くのお豆腐屋さんで豆腐を食べたが、凄く美味しい! 一同皆々、感激の様子。 (写真:池田屋跡) 枡屋[しる幸](古高俊太郎邸跡)では、新選組ファンの方々が記念写真を撮っていた。五条を抜け、ぶらぶらしながらやっと京都駅近くのホテルへ。 この日はなんと二万歩を歩いた。 私は途中、二度ばかり「もう無理かも…」と訴えるも聞き入れられず、同行の若い女性、利恵子嬢に「姫が無理と申しております」と慰められつつも、一日が終わる。 続く(次回は9日、山南忌) |
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