「佐藤彦五郎と土方歳三の姉ノブ直系子孫」が運営する資料館ブログです。佐藤彦五郎新選組資料館HPが替わりました。新しいHPはリンクから。またはこちらへ http://sato-hikogorou.jimdo.com/
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6月22日(日)
総司忌に行って参りました。 生憎の雨の中の墓参となりました。 午後からの講演会は中島大成氏です。 昨年の彦五郎忌では、3時間以上の大熱演となりまして、 さぞお疲れだったことと存じますが、 今回は大出氏より「1時間半くらいで・・・」とのご注文だったそうです。 そんなこともあって、少しスピードを上げての貴重なお話しでした。 また、ご子息お二人もスクリーン映像等にお手伝いなさってました。 函館戦争軍艦図の掛け軸 最後はやはり戦友姿絵の絵巻です。 本物は中島家が函館博物館に寄贈してしまいましたが、 これは本物と寸分違わない精巧なレプリカです。 長いものですので、開くことも巻き戻すことも大変だと思いますが 皆様、ご堪能されたことと存じます。 会場では伊東成郎氏からは「歴史街道、新選組と池田屋事件」書籍をいただきました。 ありがとうございました。 結城しはやさん、菊地明氏、山村竜也氏、釣洋一氏、流山隊の松下氏他、200名以上の講演会となりました。 PR |
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本田家を後にした私たちは、谷保天満宮に向かいました。
途中、やはり親戚の関家がございます。 ちょうど通りかかったところに「関家かなどこ跡」の看板があったので 歩道ではございましたが、少しお話しさせていただきました。 谷保鋳物師三家の中心的存在であった関家は、東京・埼玉・神奈川に、梵鐘のほか半鐘や仏像、鰐口など多種に亘る製品を奉納していました。立川普済寺(沖田家墓所)、府中高安寺、谷保山南養寺、日野牛頭天王(現八坂神社)等があります。 さて谷保天満宮ですが、先日下見に伺ったときに 「宮司さんのお話しと重要文化財の狛犬」を 見せていただけることになっていました。 谷保天満宮に着いて拝殿へ、宮司さんが私を認めると、すぐに手筈をとっていただき、社務所二階の「宝物殿」での解説をしていただけることになりました。 ここでも、谷保天満宮の古写真7枚を宮司さんに渡すことができました。 それらの古写真は、いずれこのブログで・・・ 拝殿。かつて手前には相撲土俵がありました。 三郎殿 慰霊碑は本田家の米庵流の篆刻が彫られています。 社務所二階の宝物殿に案内されて丁寧な説明を受けました。 ここで最も重要なものが、二対の木造獅子狛犬、それに天満宮の扁額です。 それを袋に入れて持ち帰らないようにとの一言がございました。 また明治41年、有栖川宮親王殿下の先導により、 日比谷公園から谷保天満宮まで、遠乗り会が開催されたことのお話しもお聞きすることができました。 当時の写真を見せていただきましたが、梅林での昼食会の様子、 多摩川手前まで車で足を延ばされた写真もございました。 最後は梅林で記念撮影をして、散会となりました。 今回の見学会で、有山家では、かつて息子さんに私がピアノを教えていた時の話や、本田家で結婚のご報告、はとこの話など、ただただ懐かしく、思い出話も尽きませんでした。 幕末前から脈々と続いている繋がりを誇りに感じる瞬間でもございました。 |
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午後からは、舞台を国立市谷保に移して、本田家主屋・薬医門の見学です。
本田家も非公開です。 1時20分、会員の皆さんより先に着きましたので、薬医門に行きますとご当主の娘さんが出迎えてくださいました。 間もなく本田家16代ご当主咊夫(荻庵)さんも見えられ、しばし談笑となりましたが、「谷保天満宮一千年祭」の古写真2枚、複写したものをお見せしたところ、明治時代の甲州街道に2台の人力車と塀が写っているのを見て、本田家前に間違いないことが分かりました。 薬医門の一部も写っていますが、まだ甲州街道に面していたものでした。 道路幅拡張によって、現在の位置に移されました。 この古写真は見た事がなかったとのこと、おふたりとも大変喜ばれておいででした。 30分ほどして、会員の皆さんも到着し、おふたりのご説明を伺ながら見学となりました。 現在、平日は国立市の調査が入っているとのことです。 昔の屋敷の絵が額にありましたが、光ってしまうため斜めからの撮影 新しい玄関には、米庵流の篆刻が並んでいます 主屋の建築年代を調べたところ、本田家には「金屋諸職人作料其外払方牒」(嘉永2年・1849年)という家普請の記録があり、このとき母屋南側の書院、および母屋西側の元々馬屋だったところを書斎等に増築したものとあります。 嘉永2年に増築されているので、歳三や近藤勇が訪れていたころは、現在の建築であったようです。 咊夫さんにお伺いしましたところ、近藤勇は周辺の剣術のために訪れていますが、書や漢詩を習っていたそうです。 東側からの面、書院、中の間、奥の間と続く 中の間・北側の柱に付けられていた祈祷札を調査したところ、享保16年(1731)銘が確認されたそうです。 祈祷札を剥がしたあとは、白く残っています。 300年近くの歴史のある建築ということになります。 東側の古い方の玄関に私が向かうと、多くのオーブが写り込んでいます。 とてつもなく長い歴史を背負った建物で、著名な文人たちも此処の歴史に携わっています。 狂歌師の蜀山人 こと太田直次郎や府中六所宮の祠官の猿渡容盛(ひろもり)、儒者で漢詩人の小野故山、他多くの文化人との交流がありました。 佐藤彦五郎邸もそうですが、当時の文人たち、また歳三・勇らの語らいが聞こえてきそうな邸内は、そんな歴史が刻まれているのですね。 歳三や勇が泊まった部屋がここ。奥の間になるそうです。 奥の間には、彦五郎の母・マサの姉・チカさんの絵の額がありました。 東側から見る薬医門 2時40分、おふたりに御礼申し上げ、谷保天満宮に向かいました。 谷保天満宮の話しは次回にさせていただきます。 |
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平成26年6月21日(土)
本日は、「福子新選組倶楽部」会員のイベントとして ①「有山家の上段の間」〈非公開〉 ②「本田家の主屋、薬医門」〈非公開〉 ③「谷保天満宮」 3カ所の見学会を行いました。 参加者は12名、当資料館に集合していただきました。 最初に向かったのが、有山家です。 ① 有山家・上段の間(非公開) ここは非公開ですが、有山様のご好意により今回特別に見学させていただけることとなりました。 この「上段の間」、かつては佐藤彦五郎宅(日野宿本陣)にあったものですが、明治26(1893)年の日野宿の大火(彦五郎宅の東隣り近くまで延焼)のあと、彦五郎が息子の彦吉のために「雨風を防ぎ、すぐに生活できるように」と、養子先である有山家に、用水路を利用し曳き家して移設したものです。 明治13年、14年と2年続けて明治天皇がご休憩されたという由緒ある建物です。 彦吉というと、歳三が怪我をして泣いた幼児の彦吉を「男の子の向かい傷だ、めでたい、めでたい」と言いながら、抱き上げ座敷に入れ介抱したというエピソードがございます。 11時にお伺いしましたところ、ご当主の奥様がご案内くださいました。 何度となく、おじゃまさせていただいておりますが その都度、感銘を受けます。 上段の間は、読んで字のごとく、一段高く作られています。 釘隠しも長押に付いているのは勿論ですが 下の段の板にも付いています。 佐藤彦五郎宅(日野宿本陣)で最も高貴な間ですので あらゆるところにこだわった造りにが見受けられます。 戸袋にも彫刻が施されているところも、めずらしいものです。 違い棚、床の間も、上段の間ならではの立派な造りになっています。 今年亡くなられたおばあ様は、勝海舟のご子孫ですが、 海舟の軸も賭けられていました。 彦五郎、のぶと四男・彦吉の親子の絆を感じさせるものでもありました。 お陰様で上段の間を堪能させていただきました。 次回は、本田家見学について書かせていただきます。 |
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6月20日は、歳三の新暦の命日です。
新暦に替わったのが、明治6年元日からとなりますが、 旧暦の明治2年5月11日・歳三の命日は、新暦では、6月20日にあたります。 歳三の最期の時、また市村鉄之助が脱出したのもそんな季節だったので、 函館ならば、より肌で感じられることと思います。 歳三の命を受け、市村鉄之助は箱館五稜郭を脱出、船の中で出航を待ちますが、出航したのが新暦の6月23日前後でしょうか。 中島登の記録には、市村鉄之助、行方不明とあります。 数日かけての航行で、6月末に横浜に着いていると思われます。 江戸の質屋に立ち寄ったという記録がございます。 それから身を潜めながら佐藤家までやってくるとなれば、数日は要すると思います。 佐藤家に着いたのが、新暦の7月3日といわれます。 やはり梅雨の時期なのですね。 旧暦と新暦、その年によって、多少の誤差が生じます。 例えば、歳三が生れた天保6年、この年の5月5日は、新暦で云うと5月31日となります。 歳三の命日は、江戸では梅雨の時期だった…なんて考えてみると、当時へ思いを馳せることができるのではないでしょうか。 旧暦と新暦を調べて、あの時は現在ではこんな季節だったのだな〜…なんて考えてみると、おもしろいものですね。 私は、歳三のすぐ上の姉、のぶの直系の子孫にあたりますが 弟思いだったのぶ。市村鉄之助から歳三の戦死を知らされた時のことを思うと、とても忍びないです。 歳三の冥福をお祈りいたします。 |
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現在、横浜市歴史博物館で催されている
「佐久間象山と横浜」特別展のために 当家所蔵の佐久間象山の書を貸し出ししておりますが、 代わりとして、山岡鉄舟の書を展示しております。 鉄舟は、勝海舟、高橋泥舟とともに、幕末の三舟と呼ばれ、 幕末から明治にかけて、活躍した幕臣です。 明治天皇は、明治13年、14年と2年続けて 佐藤彦五郎宅を訪れておられますが、 その際、三条実美を始め、寺島宗則・伊藤博文・山田顕義の三参議、 また維新以来の元勲連、山岡鉄舟らが追従いたしました。 鉄舟は、前年の12年には、井戸水の調査などのため、 佐藤家、日野宿を度々訪れたとあります。 山岡鉄舟については、新選組との関わりもあり、 それについても、追々書いていきたいと思います。 |
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先日、青森県から、
観光協会事務局長さん、観光物産課長さん、学芸員の皆様方が ご訪問されました。 資料貸出の件で、打合せをするためですが 皆様、大変熱心に資料について話し合いをされました。 その中で、近藤周斎が彦五郎に宛てた書簡 京都に行って戻らない勇を説得してほしい旨の 手紙に、大変興味を持たれていました。 年老いた周斎にとっては、試衛館の跡取りがいなければ どうにもならず、周斎本人は病に伏していること(実は病気ではない)を述べ 4名連名で彦五郎に頼み込んでいるのですが 彦五郎と勇の間では、もう了承済みだったのでしょう。 勇は大きな野望を持ってしまっているので 帰ることもできずにいる訳です。 そんなこともあって、彦五郎は試衛館を資金面の援助と 勇の代理の師範代を世話したのです。 詳細が分かりましたら、改めてご報告させていただきます。 |
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