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  「佐藤彦五郎と土方歳三の姉ノブ直系子孫」が運営する資料館ブログです。佐藤彦五郎新選組資料館HPが替わりました。新しいHPはリンクから。またはこちらへ http://sato-hikogorou.jimdo.com/
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二股口から江差に向かいます。

途中、ダムの人造湖の処に古戦場稲倉石「碧血碑」がありました。


明治元年11月に旧幕府軍と松前軍の戦いで稲倉石は激戦地でした。大正時代に元松前藩士の有志によって碧血碑が建立されました。

江差に着くと、有名な「歳三の嘆きの松」に行きます。
開陽丸が沈没するのを見た歳三が、この松を叩き嘆いたという伝説の残る松です。
立て看板の説明書きには
「土方歳三 嘆きの松
旧徳川幕府軍の軍艦「開陽丸」は、明治元年11月15日、暴風雪によって江差沖で座礁・沈没した。
伝説では、土方歳三と榎本武揚が、この場所から座礁した「開陽丸」を見て土方が松の木を叩き嘆いた。
その後、松の木にはコブができ曲がっていった。
後になり、江差の人はこの松の木を「土方歳三 嘆きの松」というようになった。」
とあります。
白鳥さんは、嘆いたというのはニュアンスが違うのではないか、もっと男らしく悔しがったのだと思う、というようなことを言っていました。


土方歳三 嘆きの松。伝説とはいえ、当時は折れ曲がるような小さな松だったのかも知れません。


嘆きの松の後ろに、明治20年建築の旧檜山爾志郡役所(江差町郷土資料館)があります。


白鳥さんが「階段を登った左側の民家の場所に旅籠があり、開陽丸が沈んだ時、歳三が榎本武揚氏と一緒に泊まった場所の跡地です」との説明がございました。


江姥神大神宮。歳三も参拝したのでしょうか。


ニシン漁の盛んだった横山家。建物はウナギの寝床形式でとても長く繋がっていました。


江差は、にしんが漁れたそうで、この道路辺りは海だったとのこと。
横山家。海に面した下の部分に船を収納したとのこと。

次に行ったのが「開陽丸青少年センター」。ここに開陽丸を復元した軍艦があります。


この建物の中はショップがありますが、開陽丸から引き揚げられたピストルや弾、隊士のブーツなどの展示もあります。


船内に入ると、当時の船内の模様を再現した人形があり、引き揚げた品が多数展示されています。
その展示品の中に、三つハートの葵の御紋があります。
徳川幕府がオランダに発注した軍艦で、船首のマークの三ツ葉葵の御紋は、オランダ側の誤解なのか、葉のところがハートのマークに作られてしまったとのことです。
可愛らしい金の葵の御紋でした。


甲板に上がると、かなり広いことが分かります。


舵をとってみましたが、とても大っきいですね。

開陽丸を出たところには開陽丸の船体の一部が展示されていました。


船体の木造部分がありましたが、雨ざらしでビックリしました。
朽ちてしまうのではないでしょうか。


スクリューシャフト。重さ長さでも出土遺物のなかで最大級のもの。


次は松前に向かいます。

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