「佐藤彦五郎と土方歳三の姉ノブ直系子孫」が運営する資料館ブログです。佐藤彦五郎新選組資料館HPが替わりました。新しいHPはリンクから。またはこちらへ http://sato-hikogorou.jimdo.com/
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2月5日(木)
神奈川県大和市のつきみ野学習センターに於いて やまと市民大学講座 「子孫が語る新選組と多摩の人々」がございました。 大和市に在住・在勤・在学する人のみ対象のシリーズ講座で 第4回「新選組を最期まで見守った佐藤彦五郎を知る」の講演をさせていただきました。 大和市には、田中天満宮に天然理心流奉納額(明治5年)、下鶴間諏訪神社には北辰一刀流の奉納額があり、剣術が盛んだったことが窺われます。 当日は生憎の雪でしたが、多くの歴史に熱心な方々が参加され、有り難く存じます。 講演内容は、彦五郎、新選組を中心にお話しいたしましたが、 今日の天候にちなみ、彦五郎と歳三の俳句を。 歳三の最も優れた句のひとつ 「ふりなから きゆる雪あり 上巳かな」は 井伊直弼が暗殺された事件をうけて・・・ また彦五郎の句は、妻ノブが亡くなった哀しみ、辛さを詠んだ 「ちる雪や 柳を見ても 梅見ても」 急遽、この2句を披露させていただきました。 わたくしの拙い講演にも、皆さま、熱心にメモをされてました。 講演が2時間ということでしたので、 途中10分の休憩を挿み、時間通り終えましたが 質疑応答もあり、時間オーバーとなってしまいました。 長時間に渡りご聴講いただき、ありがとうございました。 PR |
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一昨日、10月15日(水)、新国立美術館で催されている、「オルセー美術館展」に行って参りました。
というのも、今年の初め、パリのオルセー美術館に行きましたが、主人が「その時、貸し出しされていたカバネルの〈ヴィーナス誕生〉観たい。」というので・・・ 最終日が私の誕生日なので、10月になると「そろそろ観に行かなきゃ」と口癖のようでした。 開館時間には少し遅れて着きましたが、予想以上に結構混んでいます。 (オルセー美術館展入り口) 先ず、マネの〈笛を吹く少年〉が展示してありましたが、近づけないほど沢山の人が観ていました。 それに比べて、パリのオルセー美術館は、のんびりしていました。 (〈笛を吹く少年〉も、じっくり観ることができました。) 混雑していたのは、ルーブル美術館の〈モナリザ〉と、スペインで観たピカソの〈ゲルニカ〉くらいだったかしら。 |
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沖田総司の手紙について
私も関わっております「日野の古文書を読む会」が出している 「軌跡 Ⅱ」ー史料と解説ー 新選組特集 という本があります。 (当資料館でも通販しております) 佐藤彦五郎新選組資料館グッズ 「軌跡 Ⅱ」の35ページには沖田総司書状の解説があり、 下記のように推察しています。 武士が傷ついて戦闘能力を失い、さらに忠誠を捧げる対象を失った時、 どのような最期を迎えたらいいのか。山南の直面した課題はそのまま 沖田のものでもあり、山南に頼まれて介錯した沖田には この書状を認めながらも、気持ちの整理が出来ていなかったために、 幾つかの揺れが表われたのではないかと考えられる。 沖田総司書状については、さらに続きます。 |
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清澄庭園に行って参りました。
ここは、大河ドラマ「龍馬伝」で、もう一方の主役、岩崎弥太郎が買い取った庭園です。 龍馬伝で岩崎弥太郎は、汚く卑しい描かれ方をしていますね。 「新選組!」の彦五郎の扱いも、事実とは異なり、酷かったですけど・・・ 三菱財閥の創始者で、一代で財を成した人物ですが、あの描かれ方で、三菱グループ関係者は苦々しい思いだったそうです。 ただドラマを見ている人の大半は、そういう人だったと思ってしまうというところが問題かな?と思います。 さて、この清澄庭園、元々は西側の清澄公園と繋がっていてもっと広かった、そして、ジョサイア・コンドルが設計した洋館が建っていたそうです。 当時はきっと素敵だったことでしょう。 現在は池がメインの庭園です |
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いよいよ、明日は第11回 彦五郎忌となりました。
お天気も心配ないようです。 お陰様で、多くの皆様方のご参加のご予約をいただき 誠にありがとうございます。 昨年までは、資料館近くの生活保健センター等で、講演会を行っておりましたが 今回は、八坂神社例大祭と重なったこともあってか、市内の会場が取れませんでした。 やっと確保できたのが、立川市女性総合センターのアイム ホールでした。 皆様方には電車で一駅、足を運んで頂く事となってしまい、申し訳ございませんでした。 でも大変きれいなホールで、伊東成郎先生の中身の濃いお話しを伺える事となりました。 呉々も、お気をつけてお出でくださいませ。 当日は講演会も楽しんで、お帰り頂けましたらと願う次第でございます。 |
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父の著「聞きがき新選組」P91
「八王子壷伊勢屋の乱闘で、彦五郎は銃弾が太刀の柄に当り、一命を取り留めたが、死者二名。馬場市次郎(前日野市長の御先祖)と山﨑兼助であった。兼助は菩提寺である大昌寺の梅の樹近くに埋葬した」と書かれている。 私も住職のお母様にお尋ねしたところ、解らず、頭の中で何年も引っかかっておりました。 5月14日、佐彦会の松崎会長からのお誘いがあり、お墓参りが叶いました。 いくつもの偶然が重なり、佐彦会の会員のお一人が兼助のご子孫で、昭和38年頃、ご実家近くのお寺へ墓石を移されたとのことでした。 立派なお寺で、墓石も当時のまま残されており、戒名「先譽勇進信士」山﨑兼輔(やまざきかねすけ)とありました。 ご子孫のお宅で佐彦会メンバー8名、ご子孫3名と共に談笑し、家路に着きました。 翌日、「兼助に関する文書があったはず」と調べておりましたら、彦五郎の覚書「岡引 山﨑兼助後家かめ、扶持米請取」明治元年12月29日の文書を発見致しました。 彦五郎の長男、俊宣の字で兼助の人柄を語った文も添えられており、「正直一途、剛毅活立総テ負ルヲ浴セス狭気ノ風アリキ、日野宿 余ノ貸家二長子三人ニテ永住ノ者ナリ、余ノ家族ヘ同様出入」 江川太郎左衛門代官の命により浪人捕縛の為、腕利きの兼助をメンバーに加え、命を落とした事は、彦五郎もどれ程心を痛めた事か。 岡引 山﨑兼助の人物像を知る事となりました。 次は、横浜歴史博物館へ象山掛け軸出張の話し。 |
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