「佐藤彦五郎と土方歳三の姉ノブ直系子孫」が運営する資料館ブログです。佐藤彦五郎新選組資料館HPが替わりました。新しいHPはリンクから。またはこちらへ http://sato-hikogorou.jimdo.com/
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佐藤彦五郎が、近藤勇宛に書いた手紙の下書きが二枚、
旧佐藤彦五郎家(現日野宿本陣)の、襖の下貼りから見つかりました。 一枚は、 七月に粕谷良循が京から戻ったので、いろいろと話を聞いたこと。 将軍が船で江戸城に入ること、 「飯倉『片町』明店より出火、増上寺裏四ツ辻当りえ火先」 と飯倉の大火を伝えています。 もう一枚は 病気等を理由に、帰郷した隊士ら三名を挙げ 「彼ら如き臆病者は、取るに足らぬゆえ、其随に」 と糾弾しています。 また 「尽忠報国は、折れず曲がらず、ただ泰然として弓竹の如し とにかく、御銘々のご身分、御羨ましき、朝夕、申し暮らし居て候」 と、新選組の在り方、活躍に、彦五郎自身も 共に活躍したい気持ちが伝わってきます。 彦五郎が、このように江戸や故郷のようすを伝えていることをみても、 近藤勇と密接に連絡を取っていたことが、窺えます。 新選組関連の書簡類は、京都では、殆どが処分された云われていますが、 手紙の下書きを、襖の下貼りに使ったからこそ、 当時の様子を知る事ができます。 意味のある偶然とその驚きを感じました。 PR |
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作家の越水利江子さん作「恋する新選組」のCDをお送りいただきました。
ありがとうございました。 【なんと「恋する新選組」シリーズ(角川つばさ文庫)からイメージソングが生まれました! 恋組の物語を読んだ人なら、あの時に感じた切なさや喜びがよみがえってくると思います。 まだ物語を知らないという方も、ぜひ聴いてみて下さいね。いまどきの女子のラブソングとしても楽しめます。こんなに素敵な曲を作って下さったMar-Bowさん、幸城まなみさん、長谷川すぐみさん、歌って下さった日南まゆきさん、ほうとうにありがとう!】 CD帯に載せた越水利江子さんの推薦文より 聴かせていただきましたが、どの曲もシングルになりそうないい曲です。 ぜひ、聴いてみてください。 |
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沖田総司の手紙、山南が死去したことを伝えているので、慶応元年3月に出したことが分かります。
それから「土方君初外両三人東下仕候」と土方歳三が三人で帰ってくることが記されています。 軌跡 Ⅱの解説では、「土方歳三に同行したのは、伊東甲子太郎と斎藤一であり、五十二名の隊員を獲得している」とあります。 ここで、沖田は「土方君」と書いていますが、これは尊称です。 現在「君(くん)」というと、小中学生同士や、目下のものに対することばのようにとられがちですが、これは戦後のことで、国会では現に議員を君づけで呼んでいます。 「土方くん」とか、「歳三くん」「歳くん」という呼び方をされて、子供のように呼ばれていたと思われがちですが、当時は尊称であって、そういう意味合いはないようです。 |
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当資料館で展示しております沖田総司の手紙。
沖田総司の手紙は、全部で7通あるということですが、彦五郎宛に2通送っています。 そのひとつが、最も有名な山南啓助の死を彦五郎に知らせる手紙であろうと思います。 下の画像で「沖田総司」の署名があり、その左には「佐 彦五郎 様」とあります。 佐藤の藤を抜いて書いていますが、これを欠字といいます。 (欠字とは身分の高い相手に手紙を出す場合、文字の一部を空白にして書く)とありますが、敬意を表す意味で使ったと思います。 日付は、三月二十一日となっています。 山南の死については、最後から6行目のところに「山南兄・・・」とあり、 最後は「・・・一寸申上」とついで乍ら、ちょっと申し上げますと 三行のみさらっと書いています。 また、日付も「26日死去・・・」とあり、 実際に亡くなった23日と異なっています。 なぜ日付を間違えたのでしょう。 沖田総司は山南啓助を兄のように慕っており まさかこのような死を迎えようとは、思っていなかったのかも知れません。 または、山南の意向を汲み涙をのんでそうせざるを得なかったのか。 それだけ、山南の死は辛いことで、 日付を間違えたのではないかという説。 また葬儀の日と勘違いしたのでは?という説。 いろいろと云われていますが、 現在、解明されておりません。 これについては、後ほど書かかせていただきます。 |
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9月3日(水)
朝刊各紙に、西本願寺の文書発見の記事が出ました。 『土方「屯所暑い」直談判』西本願寺 窮状の記録発見 『新選組駐屯、ちょっと迷惑』土方「狭くて暑い」と別部屋要求 『新選組の待遇改善を土方歳三が直談判』駐屯地の西本願寺に記録 等々、見出しがございましたが 壬生の屯所より、居住環境がよくなかったということでしょうか。 畳や風通しなども違ったのでしょう。 とにかく壬生の屯所が、手狭になったということでしょうから、 増えていく隊士たちを、纏めていこうとする歳三の心情が感じられます。 「大変無理なお願いで、誠々・・・」と。 一所懸命な姿が、私の心を切なく締め付けることがございます。 時々ノブのような気持ちになってしまいますが 脈々と流れ伝わっているせいかも知れません。 これからも新選組の史料が発見されるかも知れませんね。 |
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昨夜10時、日テレの「嵐にしやがれ」で、当資料館が放映されました。
幕末ロマン課外授業で、もしも杏さんと嵐の皆さんが 新選組になったらというテーマで 先ず「日野宿本陣」、その後「佐藤彦五郎新選組資料館」で撮影ロケが行われました。 杏さんのご希望でもあったそうです。 女優の杏さんと嵐の皆様で迎えられ、資料の説明をさせていただきましたが たいへん熱心に聞いてくださいました。 歴史、新選組に詳しい杏さんですので、刀を持っていただきましたが 彦五郎の太刀を持つ場面では、席を外されて、布を取りにいき口にくわえられました。 これは、刀身はとてもデリケートで、息がかからないようにとの配慮からですが 刀にも造詣の深い方と感心いたしました。 嵐の皆さんも、とても素敵な方々で 当日は皆さんのオーラで狭い館内がいっぱいになりました。 皆様、是非「佐藤彦五郎新選組資料館」にお出でくださいませ。 当日は猛暑でしたが、杏様、嵐の皆様、そしてロケのスタッフの皆様、本当にお疲れさまでした。 日野映像支援隊のS様を始め、スタッフの皆様、ありがとうございました。 ※夏休み最後の31日(日)、臨時開館致します。 ◆拍手して頂いた時、表示されるコメントは公開されず、返事の機能はございませんので、予めご了承くださいませ。 |
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先日、新選組隊士・中島登、直系のご子孫である中島大成様と奥様が、八王子の先祖のお墓参りで、当家に立ち寄られました。
中島登の生誕の地は八王子市西寺方町で、生誕の碑がございます。 中島大成様は、五反田の本立寺でご住職をされています。 中島さまには、立ち寄られる度に素敵なものをいただき、申し訳ない思いです。 新選組隊士の直系ご子孫となると、なかなかおられませんが、よく知られているところでは、永倉新八ご子孫の杉村和紀氏、杉村悦郎氏。斉藤一ご子孫の藤田氏が直系のご子孫となります。 何年か前でしたか、当家で、ご子孫や新選組関係の古い名刺がたくさん出てまいりました。 司馬遼太郎氏、早乙女貢氏等の作家の方や、齋藤一ご子孫、伊東甲子太郎ご子孫、中島登直系ご子孫の中島節也氏、そしてなんと、中島登ご子孫が同じ名前の「中島登」のお名刺も! 以前、大成様に伺ったところ、「のぼり」とお読みするのではなく、「のぼる」とお読みするそうです。 中島大成様には、昨年の彦五郎忌で講演をしていただきましたが、お話がお上手で、戦士姿絵などの資料も充実して、参加された皆様には大変ご好評でした。 お話からも滲み出ておりましたが、大変素敵な方です。 今年の総司忌にも講演され、私も参加いたしましたが、ご本人曰く、彦五郎忌の7〜8割の出来で残念だったそうです。 またこれからもご講演を楽しみにしております。 |
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杜の都・仙台というと、緑豊かな神社のある城下町のイメージがございます。
たしかに緑が多いという実感がありました。 有名どころでは、伊達政宗像、仙台城(青葉城)、広瀬川、東北大学というところでしょうか。 土方歳三も北上の途中、この地を踏んでおりますが、 山南啓助は、陸奥国仙台藩出身という説があり、 天保4年仙台藩江戸蔵屋敷に勤める仙台藩士山南某の次男として生まれ、文武両道にして北辰一刀流、千葉周作の門人で免許を取るまでに至ったという、永倉新八等の話が残されています。 仙台でも「山南」を「やまなみ」という呼び方はないそうですが、「サンナン」と日野宿の人たちは呼んでいました。 本人も「三南」や「三男」と署名していることから、「サンナン」であったのだろうと思います。 さて、そんな仙台ですが、 るーぷるバスという、仙台市内中心部の観光スポットを巡るレトロ調なバスがあります。 どこからでも乗り降り自由で乗り放題という便利なバスです。 一日乗車券を購入して、 仙台の魅力を味わうべく出発しました。 最初に訪れたのが、伊達政宗公の霊廟「瑞鳳殿」。 伊達正宗の遺言によって、没後、第二代藩主・伊達忠宗この場所に埋葬されたそうです。 すこし小高い丘のような場所にあるので、長い坂道や階段を登っていきますが、途中、無料貸し出しの杖がありました。 伊達家の家紋といえば「竹に雀」の紋ですが、豊臣秀吉から拝領したという十六葉菊紋も使われていたようです。 明治以降、菊の御紋は天皇家のみの紋になったそうです。 この豪華絢爛な廟の地下に伊達政宗が眠っています。 日光東照宮のような凝った細工が美しい建築物ですが、国宝指定だった当時の建物は昭和20年7月の空襲で焼失してしまい、現存するのは昭和54年に再建されたものだそうです。 瑞鳳殿資料館では副葬品、遺骨調査資料、遺骨を元に復元された三藩主の姿像が展示されています。また館内の一画では発掘調査の模様を上映していました。 瑞鳳殿の坂道の途中に瑞鳳寺がありますが、「鹿児島県人7人の墓」の看板がありました。 ここには、西南戦争で敗れた西郷軍が、国事犯として全国の監獄に護送され、ここ仙台にも305人が収容されましたが、その中の13名が病死し、6名が遺族に引き取られ、残る7人が埋葬されていますという説明がありました。 七士が眠る墓。 次に向かった仙台市博物館は、仙台城三の丸跡に昭和36年に開館。昭和26年に仙台伊達家から寄贈された資料、約1000点が展示されています。 仙台城趾へ。 仙台城趾からの市内。当時、城から城下町が一望できたのでしょう。 将軍家康より25歳下の正宗は、従順を示すため、 あえて天守閣は設けなかったそうです。 ここには、あの有名な伊達政宗騎馬像があります。 伊達政宗というと独眼竜のイメージがありますが、本人の遺言により像や肖像画には両目が入れられているそうです。この騎馬像もしかり。 この騎馬像辺りが、土方歳三が伊達慶邦に拝謁した所なんですね。 杜の都・仙台も素敵なところでした。 |
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