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  「佐藤彦五郎と土方歳三の姉ノブ直系子孫」が運営する資料館ブログです。佐藤彦五郎新選組資料館HPが替わりました。新しいHPはリンクから。またはこちらへ http://sato-hikogorou.jimdo.com/
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ありがたい事に、全公演を観ることが出来ました。

本日、昼の部では佐藤彦五郎友の会のメンバーも、お忙しい中揃って来られました。

佐藤彦五郎新選組資料館次期館長であろう、二女も学校の都合がつき、
迫力ある立ち回りには、感激しておりました。

夕方の部の最終公演では、息を呑むハプニングもあり、一番楽しめました。

大村氏を始め、ウエスト・パーティーの皆様方、
本当にお疲れさまでございました。

どうぞ、ごゆっくり養生下さいませ。

とはいえ、日常は本業をお持ちの方々、
だからこそ応援をさせて頂いております。

P.S.来年は完結編をと大畑氏から聞いてしまいました。
三年間に渡り、本当でしょうか?

とことん彦五郎を応援下さり、追求する芝居集団に何か恩返しと
思う次第でございます。

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11月29日(土)
本日、19時より、ザ・ウエスト・パーティーの第3回演劇公演「真夜中の邂逅(かいこう)」が七生公会堂に於いて行われ、行って参りました。

昨年の演劇公演に続き、彦五郎その後のストーリーが演じられました。

名主として成長し、幕末の混乱した時代に起こった、武州一揆、壷伊勢屋事件と凄まじい出来事が、見事に描かれていました。

特に、この芝居での壷伊勢屋事件は、多摩に於ける池田屋事件という位置づけをしており、多摩地域でも、激しい渦の中に巻き込まれていったのであろうと、改めて感じることが出来ました。

彦五郎と近藤勇のやりとりの面白さ、奥様のつねさんが彦五郎にしたこと、大変、驚くことでもございました。
土方歳三は勿論、井上松五郎、原栄蔵、中村太吉郎、高木吉蔵、馬場市次郎に加え、
薩摩藩浪士に西郷隆盛も登場しますので、明日、ご覧になられる方は、どんな展開になるかお楽しみに。

この演劇を通して、もっとも素敵だったひとつが、ノブ役に加え、ストーリーテラーを兼ねられた河村由美氏でした。物語の流れがスムーズで効果的でした。

フィナーレでは、西郷隆盛役の潤一郎氏により、彦五郎の歌を作っていただいたとのことで、披露してくださいました。
この歌も大変素晴らしかったです。

最後に、井上源三郎ご子孫・井上雅雄氏と共に、壇上でご挨拶させていただきましたが、子孫としても、大変光栄な舞台でした。

明日も公演は、日野市「七生公会堂」に於いて
11月30日(日)12時〜  16時〜 の2公演がございます。

私は明日の2公演も、見させていただく予定です。

多摩、日野で起こった幕末を感じられますので
是非、皆さま、足をお運びくださいませ。

チケット:1980円 中・高校生:1000円 小学生以下無料


彦五郎役の高橋一馬さんと一緒に


大村国博さん(右)と佐藤僖四郎役の河村卓哉さん(左)と
大村氏は作・演出・舞台監督を手がけられております。

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第拾回・彦五郎忌、第二部はやっと実現に至りました、
中島登直系ご子孫、中島大成氏の講演です。

講演の内容は、都合上、差し控えさせていただきますが
お話しされるペース、順序立て、ユーモア等、大変素晴らしいものでした。

そのうえ、今回はビジュアル面も充実されておりました。
お話しの展開で、中島登覚書や掛け軸、次から次に貼り出される資料は
分かりやすく、目を見張るものがありました。

ご持参いただきました資料、レジュメ等、これらを探し出し、ご準備されるのには
多くの時間を費やすこととなってしまったのではないでしょうか。
さぞかしお骨折りだったこととお察しいたします。

さらに圧巻だったのは、何メートルにも渡る「戦友姿絵」でした。
大成氏が「本物と比べても全く遜色ないほど・・・」と言われましたが
精巧な複製画は、素晴らしく信じられない思いで拝見いたしました。
これを間直にご覧いただけた皆様も、感激されたことと存じます。

お陰様で、大変充実した講演会となりました。

彦五郎忌、第拾回の記念すべきイベントが大成功に終えましたこと、
中島大成様、ご参加された皆様に、心から感謝申し上げます。

「佐藤忠 IN MY LIFE」でも、彦五郎忌を紹介しております。

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平成25年9月8日(日)
この度は、第拾回・彦五郎忌にご参加いただきまして、誠に有難うございました。

中島大成氏のお話しも熱が入り、初公開資料までも。

大成氏を始め、皆様方にも感謝いたします。

また、記念品を受け取っていない方がおいでのようですので、心当たりの方はご連絡ください。

不行き届きの点が多々ありましたが、ご容赦くださいませ。

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9月8日(日)
第10回、彦五郎忌を執り行います。

第一部 11時〜12時大昌寺にて法要、彦五郎・のぶ 墓参(10時半より受付)
第二部 14時〜講演会(講師:中島登直系ご子孫・中島大成氏)生活保健センター講座室
 2千円(資料、記念品〈Tシャツ〉を含む)当日、お支払いください。

中島大成氏はご住職をされていて、休日はなかなかお時間が取れないとのことで
何度か講演をお願いしておりましたが、実現しませんでした。
今回、ようやく講演していただけることとなりました。
貴重なお話しを聞くことができることと存じます。



ご予約は、メール、または、お電話でお申し込みください。

メールアドレス d-fab@m2.hinocatv.ne.jp
TEL・FAX 042-581-0370

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本日、平成24年10月11日は、日野第一小学校・前校長、小杉先生と以前から、お約束していた、小学6年生に、日野宿本陣で、講義をする日です。

朝9時と早い時間で、雨の予報でしたが、幸いお天気もよく、着物で参りました。

旧彦五郎邸、入り口で待っておりますと、ものすごく沢山の生徒さん。
75名と引率先生3名でした。
小杉先生の「くつは、今までで一番きれいな脱ぎ方をして、上がってください」
との言葉で、本当にきちんと揃えられて、大変気持ち良かったです。

皆さんの前で、彦五郎、歳三のこと、新選組の事等をお話しさせて、いただきました。

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この19、20、21日は、三日間に渡って、
日野宿では、日野八坂神社の例大祭が行われました。

20日は八坂神社宮神輿の御霊入れの儀式が行われ、御神輿が出ますが
この御神輿は明治3年に俊宣(彦五郎は勝沼戦争の責任者として、表舞台に立つ事をしなかった)が発起人となって、十年の歳月をかけて
明治13年にやっと完成したものです。

これは千貫神輿とも呼ばれ、この宮神輿自体、大変大きなものであり
また素晴らしい彫刻が施されていて
その美しさは関東屈指をいわれております。

宮出しは、昨年は西回りでしたが、今年は東回りということで、
八坂神社の鳥居を右に出て、日野宿本陣の方向に進みました。

一昨年、宮神輿は一年の歳月を費やして、
復元総修理が施され、建造当時の姿が蘇りましたが
きれいになった宮神輿が日野宿本陣の前を通るのは、
初めてということになります。

彦五郎を始め、当時の佐藤家の人々が、
通り過ぎる神輿を見守ってくれたことと思います。

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彦五郎が八坂神社に関わったことについての年表

寛政12年(1800)牛頭天王社再建   彦右衛門

嘉永7年(1854)八坂宮再建     彦五郎

安政5年(1858)天然理心流奉献   彦五郎

万延元年(1860)祇園社の篇額奉納(工匠 鈴木亀吉)彦五郎

慶応元年(1865)神輿破れる

明治元年(1868)神仏混淆禁止令 (近藤勇の死)

明治2年(1869)牛頭天王社、八坂神社と改称。普門寺の管理離れる。(歳三の死)

明治3年(1870)名主・俊宣発起人となり、神輿、お仮屋、神輿庫の新建計画

明治7年(1874)有栖川宮熾仁親王の書による『八坂社』の篇額完成『祇園社』の額と変える

明治13年(1880)神輿等の完成、上下佐藤で祝詞奉納(彦五郎邸に明治天皇ご小休・6/16)

以上、『八坂の杜から』日野市八坂神社出版より

彦五郎と八坂神社の関わりが、大変深いことが窺われますが、
ここに登場する工匠・鈴木亀吉は、彦五郎邸の大工の棟梁です。

また、前回お話しました鈴木亀吉の写真というのは、祇園社の大きな額の横に立っている古写真です。
他に祇園社の表の古写真、裏の古写真も見つかりました。

おそらく、新たに『八坂社』の額に変える時、下ろした古い『祇園社』の額を写したのでしょう。
明治7年頃の写真かと思われます。

鈴木亀吉さん、職人肌で仕事に対して頑固だったのでしょう、しっかりしたお顔で映っています。
9月の八坂神社のお祭りに合わせて、当資料館に展示したいと思います。

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彦五郎の長男、源之助(俊宣)は相当、写真を撮っていたようです。
その古写真の中から、面白いものを見つけました。

嘉永2年の大火により、佐藤家を含むこの一帯は全焼しました。
日野宿の大惨事に名主をして、どのように対処すべきなのか…

彦五郎は八坂神社に詣でる事を、心のよりどころにしていたのでしょうか。
とんでもない人物の写真を発見しました。

それは鈴木亀吉という人物の写真です。

現在、日野宿本陣に展示してありますが、上棟した折の棟札に、棟梁・鈴木亀吉とあります。
また、ご存知の方も多いかもしれませんが、その棟札には、後に新選組に入った大石鍬次郎の名前も書かれています。

鈴木亀吉とは、彦五郎邸の大工の棟梁なのです。

写真について詳しいことは、また改めてアップ致します。

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古い手札判の写真が出て来ました。

そこに写っているのは、5人の男性なのですが
裏面を見ると名前が書いてありました。

向って前右が長男『佐藤俊宣』、前左が二男『佐藤力之助』
後ろ右が三男『佐藤連一郎』、後ろ真中が四男『佐藤彦吉』
後ろ左の背の高い方が『加藤正之』となっています。

4名は、彦五郎とノブの息子たちです。
加藤正之さんという方ですが、その方のご子孫が2年程前、
資料館に来られ、ご先祖さまが彦五郎と関わりがあったとの話しをしてくださいました。
横浜で英語教師をやっていた加藤さんは、彦五郎に依頼されて、
日野宿まで馬に乗り、家庭教師、先生としてやってきていたそうです。

この写真から想像すると、明治5〜6年の頃の写真かと思われます。

その手立てとして、四男の彦吉がまだ少年のような背丈なので、13歳くらいでしょうか。
カメラを睨みつけているような姿が、なんともユーモラスです。

三男の連一郎は、医科大学(現:東京大学医学部)在学中に22歳の若さで亡くなっています。
この写真の時は16歳くらいということになります。
美男子で、医者を目指していたのですが、最も将来を嘱望されていたという話しです。

二男の力之助は19歳ということになります。その後、力之助は土方歳三の兄・喜六さんの孫娘と結婚しています。

長男・俊宣は24歳となります。嫁に迎えたのは、歳三が書を習っていた本田覚庵さんの娘です。

まだノブも健在であった頃です。

彦五郎は、文化人との交流も多く、若い頃から俳句、楽器、書などを嗜み
風流人として生きてきましたが

明治時代初期には、これからの世の中は英語が必要と感じ
早々に取り入れ、学ばせていたことになります。

当時の状況から考えると、革新的であり凄いことだと思いました。

彦五郎というと、仁侠心に富み、侍道の精神も持ち
徳川家の天領という土地柄、『命を惜しまずに幕府を守る』心意気がありました。

維新以降も自分たちのやったことは間違っていないという信念を持ち続け、
その後も殉節両雄の碑を建てることに、力を注ぎますが
一方では、いいと思うことには西洋のものも積極的に取り入れていったということでしょう。

これは歳三と共通するところかも知れません。

自分の信念を持ちながらも、柔軟な考え方ができるということではないでしょうか。

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