忍者ブログ
  「佐藤彦五郎と土方歳三の姉ノブ直系子孫」が運営する資料館ブログです。佐藤彦五郎新選組資料館HPが替わりました。新しいHPはリンクから。またはこちらへ http://sato-hikogorou.jimdo.com/
Admin*Write*Comment
[1]  [2]  [3]  [4

昨年は岡山の『備前長船刀剣博物館』で行い、大盛況でした。
「来年は是非、愛知県の岡崎で・・・」とのお約束で
今年は岡崎城で行います。

佐藤彦五郎新選組資料館から土方歳三の愛刀「越前康継」の
刀身展示がございます。

また当資料館所蔵の土方歳三、沖田総司の書簡は、複製を新
選組のふるさと歴史館からお借りして、展示されます。

私も資料等の関係で前日入りし、オープニングに参加いたします。

会期:7月15日(土)〜10月1日(日)
   9:00〜17:00(最終16:30)
場所:岡崎城・三河武士のやかた家康館
入館料:大人(中学生以上)510円、小人(5歳以上)270円





拍手[5回]

PR



先般、産経新聞の企画記事「司馬作品を歩く〜夏〜燃えよ剣」と題し、歌舞伎役者の片岡愛之助さんが、旧・佐藤彦五郎邸(現・日野宿本陣)を訪れました。

これは、没後20年を迎えた司馬遼太郎さんの名作の舞台を、四季折々に著名人が訪ねるという企画で、土方歳三の姉の嫁ぎ先で新選組を物心両面で支えた名主、佐藤彦五郎の自宅を兼ねていた日野宿本陣を片岡愛之助さんが訪ねることとなり、日野市ガイドの会会長の芹川氏から説明を受けました。


(片岡愛之助さんと)

わたくしも末裔としてご紹介していただき、愛之助さんは、このような歴史ある屋敷のご子孫にお会いできて...こちらこそ光栄に存じます。
先月、当資料館で収録ロケを行った「片岡愛之助の解明!歴史捜査」の話も出ましたが、とても涼やかな目が印象的な方でした。


(お礼状とともに送られてきた産経新聞の一面)

記事にも、『玄関を上がってすぐの十畳間で、土方はよく昼寝をしていたという。愛之助さんが端然と座ると、現在ワンポーズだけ残る目元の涼やかな洋装姿の土方歳三の写真と重なってくる』...とあり、さらに
『敷地内にはかつての天然理心流の道場もあり、土方や近藤勇、沖田総司ら新選組の結成メンバーが剣術を磨いた。
「歴史がすごく身近に感じられて、ここで繰り広げられた光景を想像してしまう」
新選組が生まれた地を実感したと愛之助さんは言う』...と続きます。


(中面見開き記事)


司馬遼太郎さんは、1962年、「燃えよ剣」を執筆するにあたり、父に取材にお出でになりました。
日野宿本陣(旧 佐藤彦五郎邸・父母の代まで暮らしていた)の前で撮った、司馬遼太郎さんと父の写真がありますが、父を取材に来られた時のものです。


(司馬さんと父、彦五郎邸の前で)

父は司馬さんを自宅の父の書斎に招き入れ、ウイスキーを飲みながら、土方歳三や新選組の話をしました。
この時、父は「不許他見」(佐藤家代々に書き残したもので、他人に見せてはならぬ)と表紙にある彦五郎の長男、佐藤俊宣が書き残した「今昔備忘記」をこっそり司馬さんに見せてしまいました。
その中に、市村鉄之助が佐藤家に来たときのことが詳しく記載されていました。
司馬さんにとっては、これは!と思えた記述だったことでしょう。
「燃えよ剣」に市村鉄之助のことが盛り込まれました。
これによって、「市村鉄之助」という名前が初めて世にでることになりましたが、司馬さんとの楽しく過ごした時間によって生まれたエピソードです。

司馬さんは、父に会ったときのことを、あとがきに残しています。
『歳三の姉の曾孫が当主なっている佐藤家は日野の甲州街道ぞいにある。
当主は、「維新後は、肩身のせまい思いをした、と祖母がいっていました」
と微笑したが、その容貌が、写真で歳三の顔にもっとも似ていた。
「眼もとの涼しい顔で、役者のようだった、といいます」・・・』


(司馬遼太郎さんの名刺)


(贈呈の初版・燃えよ剣と写真)

「司馬遼太郎展」が来年、全国各地を巡回するそうです。

拍手[12回]




翌15日、「プレス発表があるので、説明に来てください」とのことで、今日は電車で刀剣博物館まで行きました。
長船駅までは岡山駅から赤穂線を利用します。

赤穂線は1時間に2本間隔で電車が出ておりますが、長船駅まで約30分ほどで到着します。
駅から刀剣博物館まではタクシーです。土日祝はシャトルバスが出るかもしれません。

到着すると、博物館関係の方、市の広報の方、山陽新聞社、デザイン会社の方等々お会い致しました。



いよいよ明日からのオープンですが、本日も長倉氏ご夫妻がお出でになり、昨日見学出来なかった1階展示室も見る事が出来ました。


(土方歳三の佩刀「康継」。この連休中、大変な人気だったそうです)


この日はどうしても閑谷学校を見学したかったため、電車で行こうとしたところ、奥様が「一緒に車で行きましょう」とおっしゃって下さり、またまた一日お付き合い頂きました。

時間も昼近くになり、閑谷近く、イタリアンレストラン「レ・マーニ」(車でないと行かれません)で昼食。
このレストラン、田舎に突如ヨーロッパのお城が出現!
結婚式場、教会あり、野外劇場あり、地ビールあり!敷地もとても広くて驚きのレストランでした。(レ・マーニ 検索してみてください)






昼食後、念願の閑谷学校へ・・・感動致しました。
長倉氏はここは何度もお仕事で訪れているので、お詳しく、椿の森を案内下さりました。
素晴らしい森で異空間を体感致しました。







このように二日間、長倉氏のお世話になり、さぞやお疲れになられた事と存じます。
本当にありがとうございました。

拍手[10回]




7月14日(木)



当資料館所蔵の『越前康継』を「是非、展示したい」と備前長船刀剣博物館からの依頼があり、見学も兼ねて岡山へ行って参りました。

康継は葵御紋が契られた徳川の拝領刀ですが、和泉守兼定が佐藤家にあった頃も康継のほうを大事にしていた記録が残っております。
また刀身の茎には2度の試切りが彫られていますが、試切りとは、将軍の佩刀を死刑人の体を斬って刀の利純を試すもので、大名や旗本等も山田浅右衛門に試斬りを依頼しておりました。要するに試斬りがされるとは、一級の刀である証しとなります。

今回は越前康継に加え、当館所蔵の土方歳三の書簡も展示の意向があり、そのレプリカを新選組のふるさと歴史館からお借りし、持参する為、長女も同行致しました。

事前に岡山在住の長倉達郎氏と連絡しあった上、岡山駅まで迎えに来て頂き、先ずは大切な資料を長船刀剣博物館へ納めることと致しました。
長倉氏の運転で小一時間ほどで到着いたしましたが、本当に助かりました。

博物館では展示の真っ最中でしたが、その場で刀を改め、書簡と共に展示くださいました。
薄桜鬼・土方歳三のパネルの前に康継と兼定、土方書簡は迫力ある展示となっております。


(展示された歳三の佩刀と書簡。前は同行した長女)

その後、長倉氏の案内で、あさくらゆう氏によって発見された、安富才助さんのお墓に連れていっていただきました。
お墓参りでは歳三の子孫として手を合わせ、御礼をお伝えしました。
安富才助さんは箱館戦争後、彦五郎を訪れ、土方歳三戦死の状況報告していただきましたが、それを書き取ったメモ書は、歳三戦死の状況を伝える貴重な資料として、当資料館に展示しております。
(あさくら氏、よく発見くださいました!)


(側面には“安富才助夫婦之墓”と彫られています)

侍屋敷・安富牧場ではアイスクリームでひと息いれ、岡山駅まで送っていただきました。
長時間の運転、本当にありがとうございました。

拍手[12回]




歳三の命を受け、市村鉄之助は箱館五稜郭を脱出して、予め用意されていた横浜行きの船の中で出航を待ちましたが、出港前に歳三の戦死の報告を受けました。
中島登の記録には、5月11日、市村鉄之助、行方不明とあります。

数日かけての航行で、6月末には横浜に着いてから、東京の「大東屋」に立ち寄ったという記録がございます。後に大東屋から島田魁に送られた手紙にも書かれていました。
土方歳三から命を受けた遺品を届けに来たことや、質屋で刀を金に替えたこと。

それから佐藤家に着いたのが、新暦の7月3日といわれます。
日野の佐藤彦五郎の家にたどり着き、写真、遺髪、辞世の句や書付けなどを届けました。
ただ手紙はありませんでした。



勝沼戦争後、賊軍となり、彦五郎は新政府軍から命を狙われ、佐藤家は一家散り散りに逃亡生活になりました。
その後、多くの嘆願書により、一家差し構え無しとのことで許されますが、表立った行動は出来ませんでした。

あれだけ手紙を送ってきていた歳三が、それ以降、一切手紙を出さなくなりました。
歳三は聡明な人でしたので、父のように慕った彦五郎、唯一無二の甘えられる存在だったノブに、自分が関わることによって、要らぬ嫌疑がかかってはならないと、証拠に残る手紙を書けなかったのでしょう。歳三の気持、痛々しく切ない思いを感じます。
歳三の一番大切な身内への心遣いは、証拠に残らぬよう市村鉄之助に伝言としてもたらされました。

「われ、日野佐藤に対し、何ひとつ、恥ずるべきことなきゆえ、どうかご安心を」

宇都宮、会津、仙台、箱館。もっと沢山、彦五郎やノブに伝えたい手紙を出したかったことでしょう。

その後、明治四年(1871年)までの約2年間、歳三の遺言どおり、佐藤家で匿われました。


「彦五郎忌・新選組講演会」の予約も受付中です。メール、またはお電話でお申し込み下さい。

Eメール d-fab★sage.ocn.ne.jp ★を@に変えてください

拍手[13回]




6月20日は、歳三の新暦の命日です。

新暦に替わったのが、明治6年元日からとなりますが、
旧暦の明治2年5月11日・歳三の命日は、新暦では、6月20日にあたります。



歳三の命を受け、市村鉄之助は箱館五稜郭を脱出して、予め用意されていた横浜行きの船の中で出航を待ちました。
中島登の記録には、5月11日、市村鉄之助、行方不明とあります。

数日かけての航行で、6月末には横浜に着いたことでしょう。
東京の「大東屋」に立ち寄ったという記録がございます。後に大東屋から島田魁に送られた手紙にも書かれていました。
土方歳三から命を受けた遺品を届けに来たことや、質屋で刀を金に替えたこと。

それから身を潜めながら佐藤家までやってくるとなれば、数日は要すると思います。

佐藤家に着いたのが、新暦の7月3日といわれます。
やはり梅雨の時期なのですね。
日野の佐藤彦五郎の家にたどり着き、写真、遺髪、辞世の句や書付けなどを届けました。
ただ手紙はありませんでした。
勝沼戦争後、賊軍となり、彦五郎は新政府軍から命を狙われ、佐藤家は一家散り散りに逃亡生活になりました。
その後、多くの嘆願書により、一家差し構え無しとのことで許されますが、表立った行動は出来ません。

あれだけ手紙を寄越していた歳三が、そこから手紙を一切出さなくなりました。
父のように慕った彦五郎、唯一無二の甘えられる存在だったノブに、自分が関わることによって、なにか嫌疑がかかってはならないと、証拠に残る手紙を書けなかった歳三の気持、痛々しく切ない思いを感じます。
歳三の一番大切な身内への心遣いは、市村鉄之助に伝言としてもたらされました。

「われ、日野佐藤に対し、何ひとつ、恥ずるべきことなきゆえ、どうかご安心を」

宇都宮、会津、仙台、箱館へと、もっと沢山、彦五郎やノブに伝えたい手紙を出したかったことでしょう。

その後、明治四年(1871年)までの約2年間、歳三の遺言どおり、佐藤家で匿われました。

歳三の冥福をお祈りいたします。


「彦五郎忌・新選組講演会」の予約も受付中です。メール、またはお電話でお申し込み下さい。

Eメール 佐藤彦五郎新選組資料館


拍手[8回]




東京富士美術館で催されている「ザ・刀剣」展の後期が、18日からスタートしました。
当資料館所蔵の土方歳三の愛刀、葵御紋の越前康継が展示されました。

この刀剣展、同美術館でも大変入館者数が多いとのこと、刀剣ブームで若い女性を中心に来館されている話しでした。

これだけの名刀が揃うのも珍しいと思いますので、ご興味のある方は是非見に行かれる事を、お薦めします。



拍手[7回]




佐藤家では毎年末28日にお餅つきをしていました。
それは、29日では9(苦)が付くとのことで、苦を避けるという意味で前日の28日に行っておりました。

その年末恒例行事で、つき役をしていたのが歳三でした。
餅つきは上手だったそうですよ。

一度、年末に近藤勇さんが佐藤家に滞在の時、ちょうど餅つきがあり
勧められて杵を持ちましたが、力ばかり入って上手くつく事が出来ず
歳三に代わったそうです。
おどけた仕草して笑わせながらも、いつものように慣れた手付きで餅をつく歳三の姿に
近藤さんも脱帽したそうです。

こんな一場面も、器用な歳三らしいエピソードですね。
姉のノブにもこんな弟の姿は微笑ましく映ったことでしょう。

この一年、ブログ「福子だより」を読んでくださった皆さま、お付き合いいただき誠にありがとうございました。
どうぞ良いお年をお迎えください!

拍手[20回]




7日、夜7時から BS11で放送された
「とことん歴史紀行・榎本武揚 盟友土方の最期 蝦夷地に散った夢の続き〜函館〜」を拝見致しました。

曾孫にあたる榎本隆充氏のインタビューも時間たっぷりで、
「武揚は蝦夷に戦争をしに行ったのではなく、蝦夷地を開拓して旧幕臣たちを救うことが目的だった」とのニュアンスを話されておりましたが、本当に良く言って下さいました。
アルカディアを創る為に。

新政府の元で、の苦悩も良く解りました。

榎本隆充氏とは、先月「新選組を語る会」で、また6月に函館で行われた「碧血碑・慰霊祭」とお会い致しました。
「歳三さんは亡くなってしまったのに・・・」と挨拶をくださいました。

番組の戦闘シーンで土方歳三役をされていた方は、ひの新選組まつりのパレードでおなじみですが、函館五稜郭祭の野外劇では土方歳三役をされている南部光昭さんでした。

拍手[2回]




江差から松前方面に向かいますが、途中、大滝の古戦場跡に降りました。

谷には大滝橋が掛けられていますが、当時は深い谷をよじ登るような難所だったそうです。
明治元年11月、松前藩軍との激戦で、土方歳三隊、旧幕府軍の攻撃が上回り、一挙に制圧しました。


大滝の古戦場の碑があります。


大滝橋の山側には、滝が見えました。


橋脚から海岸方面には旧道が残っています。現在、草に覆われていて分かりにくいですが、平な所が旧道です。
白鳥さんは「あの先から歳三さんがやってきました」と言われました。

次の地、松前に着くと、白鳥さんのご厚意で午餐を御相伴にあずかりました。

温泉旅館「矢野」で午餐を予約されていたそうですが、コース順路変更で時間が遅くなってしまい、白鳥さん、旅館の女将さん始め皆様にもご迷惑をお掛けしました。


温泉旅館「矢野」の女将さんと

さっそくお部屋にご案内していただきましたが、大変眺めのいいお部屋をご用意いただきました。



ここでご予約いただいた料理は、1860年、京都から松前藩主14代徳広公に嫁いだ姫の婚礼の祝膳で、お姫様のために京風だそうです。

松前、函館でも親しまれているくじら汁や寄せ豆腐、にしんに数の子、いくら、あわび飯などが並びました。特別に「うにの天ぷら」も付いていました。


150余年前の御膳に思いを馳せ、美味しくいただきました。

この矢野旅館の1階には、甲冑などの貴重な展示スペースがあります。


慶応3年に撮られた松前城の古写真。歳三が攻め入った当時のようすが思い浮かびます。





矢野旅館は、松前城と法華寺の間に位置しています。弾が飛び交った場所かも知れませんね。

このあと、法華寺に向かいました。




草むらの奥に入って行くと、旧幕府軍合葬塚があります。


法華寺から見た松前城。土方歳三が見据えた城はこんなだったのかも知れませんね。

近所に方が「ここに土方歳三のお墓がありますよ」と言われましたが、旧幕府軍の数名のお墓です。


右奥に旧幕府軍のお墓が並んでいます。

次に松前城に車で向かいました。


残念ながら、拝観時間が過ぎて天守の中には入れませんが、城内は見ることができます。


歳三が入城した門だそうです。


お城からが海を隔てて、津軽まで見渡せます。


ここからのお城が一番素敵です。


塀には鉄砲を撃つ為の穴が、たくさん付けてありました。

最後に向かったのが、永倉新八住居跡です。


看板があるのみで更地の状態です。
ここは個人で探すには見つけにくいかもしれません。


以上で、今回の歳三の足跡巡りの旅は終了です。

今回、歳三の足跡巡りをご厚意でガイドしていただいた白鳥さんは、箱舘で歳三の足跡には大変詳しい方で函館のツアーガイドをされています。
皆さんもいかがですか。

拍手[14回]



カレンダー
06 2017/07 08
S M T W T F S
1
2 3 5 6 7 8
9 11 12 13 14 15
16 18 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31
フリーエリア
最新CM
[07/25 濱田]
[07/17 NONAME]
[04/25 深津恵理]
[01/05 misayo]
[11/15 赤井田柚美]
[08/23 よし]
[05/13 赤井田柚美]
プロフィール
HN:
fukuko
性別:
女性
バーコード
ブログ内検索
カウンター
アクセス解析
Copyright ©      佐藤彦五郎新選組資料館日記『福子だより』 All Rights Reserved.
photo by RHETORIC material by Atelier Black/White Template by Kaie
忍者ブログ [PR]