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  「佐藤彦五郎と土方歳三の姉ノブ直系子孫」が運営する資料館ブログです。佐藤彦五郎新選組資料館HPが替わりました。新しいHPはリンクから。またはこちらへ http://sato-hikogorou.jimdo.com/
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東京富士美術館で催されている「ザ・刀剣」展の後期が、18日からスタートしました。
当資料館所蔵の土方歳三の愛刀、葵御紋の越前康継が展示されました。

この刀剣展、同美術館でも大変入館者数が多いとのこと、刀剣ブームで若い女性を中心に来館されている話しでした。

これだけの名刀が揃うのも珍しいと思いますので、ご興味のある方は是非見に行かれる事を、お薦めします。



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佐藤家では毎年末28日にお餅つきをしていました。
それは、29日では9(苦)が付くとのことで、苦を避けるという意味で前日の28日に行っておりました。

その年末恒例行事で、つき役をしていたのが歳三でした。
餅つきは上手だったそうですよ。

一度、年末に近藤勇さんが佐藤家に滞在の時、ちょうど餅つきがあり
勧められて杵を持ちましたが、力ばかり入って上手くつく事が出来ず
歳三に代わったそうです。
おどけた仕草して笑わせながらも、いつものように慣れた手付きで餅をつく歳三の姿に
近藤さんも脱帽したそうです。

こんな一場面も、器用な歳三らしいエピソードですね。
姉のノブにもこんな弟の姿は微笑ましく映ったことでしょう。

この一年、ブログ「福子だより」を読んでくださった皆さま、お付き合いいただき誠にありがとうございました。
どうぞ良いお年をお迎えください!

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7日、夜7時から BS11で放送された
「とことん歴史紀行・榎本武揚 盟友土方の最期 蝦夷地に散った夢の続き〜函館〜」を拝見致しました。

曾孫にあたる榎本隆充氏のインタビューも時間たっぷりで、
「武揚は蝦夷に戦争をしに行ったのではなく、蝦夷地を開拓して旧幕臣たちを救うことが目的だった」とのニュアンスを話されておりましたが、本当に良く言って下さいました。
アルカディアを創る為に。

新政府の元で、の苦悩も良く解りました。

榎本隆充氏とは、先月「新選組を語る会」で、また6月に函館で行われた「碧血碑・慰霊祭」とお会い致しました。
「歳三さんは亡くなってしまったのに・・・」と挨拶をくださいました。

番組の戦闘シーンで土方歳三役をされていた方は、ひの新選組まつりのパレードでおなじみですが、函館五稜郭祭の野外劇では土方歳三役をされている南部光昭さんでした。

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江差から松前方面に向かいますが、途中、大滝の古戦場跡に降りました。

谷には大滝橋が掛けられていますが、当時は深い谷をよじ登るような難所だったそうです。
明治元年11月、松前藩軍との激戦で、土方歳三隊、旧幕府軍の攻撃が上回り、一挙に制圧しました。


大滝の古戦場の碑があります。


大滝橋の山側には、滝が見えました。


橋脚から海岸方面には旧道が残っています。現在、草に覆われていて分かりにくいですが、平な所が旧道です。
白鳥さんは「あの先から歳三さんがやってきました」と言われました。

次の地、松前に着くと、白鳥さんのご厚意で午餐を御相伴にあずかりました。

温泉旅館「矢野」で午餐を予約されていたそうですが、コース順路変更で時間が遅くなってしまい、白鳥さん、旅館の女将さん始め皆様にもご迷惑をお掛けしました。


温泉旅館「矢野」の女将さんと

さっそくお部屋にご案内していただきましたが、大変眺めのいいお部屋をご用意いただきました。



ここでご予約いただいた料理は、1860年、京都から松前藩主14代徳広公に嫁いだ姫の婚礼の祝膳で、お姫様のために京風だそうです。

松前、函館でも親しまれているくじら汁や寄せ豆腐、にしんに数の子、いくら、あわび飯などが並びました。特別に「うにの天ぷら」も付いていました。


150余年前の御膳に思いを馳せ、美味しくいただきました。

この矢野旅館の1階には、甲冑などの貴重な展示スペースがあります。


慶応3年に撮られた松前城の古写真。歳三が攻め入った当時のようすが思い浮かびます。





矢野旅館は、松前城と法華寺の間に位置しています。弾が飛び交った場所かも知れませんね。

このあと、法華寺に向かいました。




草むらの奥に入って行くと、旧幕府軍合葬塚があります。


法華寺から見た松前城。土方歳三が見据えた城はこんなだったのかも知れませんね。

近所に方が「ここに土方歳三のお墓がありますよ」と言われましたが、旧幕府軍の数名のお墓です。


右奥に旧幕府軍のお墓が並んでいます。

次に松前城に車で向かいました。


残念ながら、拝観時間が過ぎて天守の中には入れませんが、城内は見ることができます。


歳三が入城した門だそうです。


お城からが海を隔てて、津軽まで見渡せます。


ここからのお城が一番素敵です。


塀には鉄砲を撃つ為の穴が、たくさん付けてありました。

最後に向かったのが、永倉新八住居跡です。


看板があるのみで更地の状態です。
ここは個人で探すには見つけにくいかもしれません。


以上で、今回の歳三の足跡巡りの旅は終了です。

今回、歳三の足跡巡りをご厚意でガイドしていただいた白鳥さんは、箱舘で歳三の足跡には大変詳しい方で函館のツアーガイドをされています。
皆さんもいかがですか。

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二股口から江差に向かいます。

途中、ダムの人造湖の処に古戦場稲倉石「碧血碑」がありました。


明治元年11月に旧幕府軍と松前軍の戦いで稲倉石は激戦地でした。大正時代に元松前藩士の有志によって碧血碑が建立されました。

江差に着くと、有名な「歳三の嘆きの松」に行きます。
開陽丸が沈没するのを見た歳三が、この松を叩き嘆いたという伝説の残る松です。
立て看板の説明書きには
「土方歳三 嘆きの松
旧徳川幕府軍の軍艦「開陽丸」は、明治元年11月15日、暴風雪によって江差沖で座礁・沈没した。
伝説では、土方歳三と榎本武揚が、この場所から座礁した「開陽丸」を見て土方が松の木を叩き嘆いた。
その後、松の木にはコブができ曲がっていった。
後になり、江差の人はこの松の木を「土方歳三 嘆きの松」というようになった。」
とあります。
白鳥さんは、嘆いたというのはニュアンスが違うのではないか、もっと男らしく悔しがったのだと思う、というようなことを言っていました。


土方歳三 嘆きの松。伝説とはいえ、当時は折れ曲がるような小さな松だったのかも知れません。


嘆きの松の後ろに、明治20年建築の旧檜山爾志郡役所(江差町郷土資料館)があります。


白鳥さんが「階段を登った左側の民家の場所に旅籠があり、開陽丸が沈んだ時、歳三が榎本武揚氏と一緒に泊まった場所の跡地です」との説明がございました。


江姥神大神宮。歳三も参拝したのでしょうか。


ニシン漁の盛んだった横山家。建物はウナギの寝床形式でとても長く繋がっていました。


江差は、にしんが漁れたそうで、この道路辺りは海だったとのこと。
横山家。海に面した下の部分に船を収納したとのこと。

次に行ったのが「開陽丸青少年センター」。ここに開陽丸を復元した軍艦があります。


この建物の中はショップがありますが、開陽丸から引き揚げられたピストルや弾、隊士のブーツなどの展示もあります。


船内に入ると、当時の船内の模様を再現した人形があり、引き揚げた品が多数展示されています。
その展示品の中に、三つハートの葵の御紋があります。
徳川幕府がオランダに発注した軍艦で、船首のマークの三ツ葉葵の御紋は、オランダ側の誤解なのか、葉のところがハートのマークに作られてしまったとのことです。
可愛らしい金の葵の御紋でした。


甲板に上がると、かなり広いことが分かります。


舵をとってみましたが、とても大っきいですね。

開陽丸を出たところには開陽丸の船体の一部が展示されていました。


船体の木造部分がありましたが、雨ざらしでビックリしました。
朽ちてしまうのではないでしょうか。


スクリューシャフト。重さ長さでも出土遺物のなかで最大級のもの。


次は松前に向かいます。

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旅の二日目は、ガイドの白鳥様に組んでいただいたスケジュールで、松前、江差の歳三の足跡を巡っていきます。

10時にホテルにお迎えくださり出発となりましたが、主人が二股口に行きたいとのリクエストをお伝えしたところ、今回のコースに入れると二股口が夕方以降になってしまうため、先に回った方がいいだろうとの判断で、予定コースを急遽替えての史跡めぐりとなりました。
わがままにも対応していただき、有り難い限りです。

二股口に行く途中、北斗市の市渡というところですが、そこでは土方隊ゆかりの場所、二カ所を訪れました。
最初に車を降りたのが、土方隊野戦病院跡地です。


現在は草と木の処に看板が立っています。

次は、土方隊が二股口戦で作戦会議を開いた川濯神社。


川濯神社の参道。大きな木が何本かありますがが、当時のものが残っていると思われます。
石の鳥居には、安政六年三月の文字が彫ってあります。


本堂は階段を上がったところにあります。


歳三はこの境内から隊士たちに士気を鼓舞したのでしょうか。
白鳥さんは「ここに立った歳三さんが見下ろした景色でしょう」と言われました。



川濯神社の長い参道には赤い鳥居、石の鳥居があります。

次に向かったのが、二股口です。
車は国道227号線を江差方面に向かいましたが、二股口は知らないと通り過ぎてしまいそうなところにありました。


二股口古戦場の案内が建っていました。


奥へ奥へと進んでいきます。


この立て札からは、山道、けもの道を登っていくことになります。


古戦場跡の小さな矢印看板が所々に建っています。


山道を登りましたが、底の厚い靴ではなかったので途中で断念。
白鳥さんは、この上で歳三が隊士たちに酒を振る舞ったとの説明がありました。


次は江差に向かいます。

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今回は「碧血碑慰霊祭」で函館に伺うことになりましたが、以前、函館を初めて訪れた際は、湯の川にあるホテルに到着すると先ず「鷲の木海岸」に向かったことを思い出します。
帰りは海沿いの道路から川汲を通って戻りました。

函館空港に到着すると、歳三の足跡に大変詳しいガイドをされている白鳥様が出迎えてくださいました。
今回、函館、江差、松前とスケジュールを組んでいただきました。

空港から中心地に車で移動しますが、箱館の歳三や幕府軍の足跡を辿りながら向かっていきます。


湯倉神社。湯の川温泉発祥の地。榎本武揚軍は傷病兵をこの湯で療養させたとある。


五稜郭から箱館山へ向かう直線道路は当時の旧道。


松川街道。歳三が最後に駆け抜けた道だそうです。


箱館山方面から新政府軍は行軍してきた。


沖之口番所跡。新選組が市中見回りのために使った番所。
歳三が暮らしていた丁サ、新選組屯所にも近い場所にあった。


丁サ。歳三が箱館で過ごす時に使われた豪商「佐野専左衛門」宅跡とのこと。


新選組屯所跡。向かいの弥生小学校を含み「称名寺」があった所。


幕府によって建造された箱館丸の復元船。



明治33年9月に完成した函館港の防波堤。弁天台場の土塁石垣石が多く使われたとのこと。


石垣には弾が当たった丸い穴があるとの説明があった。


碧血碑慰霊祭建立140周年記念・直会に展示された武蔵野楼の古写真。
豊川橋のほとりにあった遊女屋で、屋形船でここに通うのが粋だったという。
明治2年、箱館戦争終結前夜ここで幕府軍最後の宴が催されたという。

武蔵野楼があった場所は現在埋め立てられ、このガソリンスタンド辺りとのこと。

明治2年5月11日(新暦6月10日)、歳三が倒れた一本木関門。
最期の地として、若松緑地公園内に碑が建っていますが、白鳥様によると、安全対策上そこにしましたが、実際に撃たれた最期の場所はこの道路の辺りだそうです。
そこに降り、手を合わせることができたことは、今回の函館での最も重要なことのひとつ。
ご案内くださった白鳥様に感謝いたします。


歳三最期の地はこの辺りとのこと。


つづきは「二股口」「江差」です。

現行のHPはこちらです↓
佐藤彦五郎新選組資料館 HP

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平成27年6月25日(木)

碧血碑建立140周年記念碑前慰霊祭、並びに直会が挙行されるにあたり
「土方歳三、姉の子孫」としてご招待があり、碑前供養させていただきました。

節目の140周年記念慰霊祭ということで、旧幕府軍ご子孫、函館碧血会ご関係者、一般の方々と多くの参加がございました。



午後二時より、碧血碑前にて慰霊祭が行われました。
実行寺の望月ご住職のによる力強い読経が始まるとともに、空気が一変し、御霊が静まるのを感じました。
実際にその場所にいることが、そこにいてこそ感じるものがあり、心を強く動かされ、自然と熱いものがこみ上げてくるのは、流れている血のせいでしょうか。



子孫、碧血会関係者、一般、そして最後は谷地頭保育園の園児さんがお焼香をして終わりますが、そのあと、折り鶴を作り参列している谷地頭保育園、園児に、感謝状が送られたシーンはとてもかわいらしいものでした。

このような慰霊祭が毎年続いていること、函館碧血会、また市民の皆さまが140年も守り続けてこられたことに敬服いたしますとともに、厚く感謝いたします。





(中島三郎助ご子孫と)

式典後すぐ、S様の車で「実行寺」に案内していただき、旧幕府軍戦没隊士等の墓前で望月ご住職等での読経、供養に参列させていただきました。
このご供養はどうしても参列したく、S様にお願いして計らっていただきました。
本当にこの場に呼んでいただいたこと、大変ありがたいことで、心に残る時となりました。

供養のあと、望月ご住職とお話しする機会をいただきましたが、お話しの一言一言が慈悲深く、胸も熱くなり涙する話しもしていただきました。
とても立派なご住職で感服いたしました。


(実行寺をあとに直会へ)

その後の「直会」は、ベルクラシック函館という会場で午後6時より開かれました。

「碧血碑建立140周年記念慰霊祭 箱舘戦争・旧幕府軍を偲ぶ会」
頂いた冊子のご子孫の紹介の欄を見ますと、
和田四郎氏(碧血会初代会長、和田惟一の子孫)藤野哲男氏(第三代会長、藤野正路の甥)
榎本隆充氏(榎本武揚の子孫)、土方愛氏(土方歳三、兄の子孫)、
小杉伸一氏(小杉雅之進の子孫)、中島恒英氏(中島三郎助の子孫)、
金田秀昭氏(伊庭八郎、弟の子孫)、天野淳司氏(荒井郁之助の子孫)、
好川之範氏(会津藩士、好川範之丞の子孫)とあります。

私は(土方歳三、姉の子孫)と記載されておりました。

この直会にも120名余りの方々が参加されましたが、このような盛大の偲ぶ会は初めてだそうです。


(伊庭八郎、弟のご子孫と)

祝宴では、コーディネーター・合田一道氏(ノンフィクション作家)によるご子孫の紹介があり、和田四郎氏、藤野哲男氏、土方愛氏に続いて、土方歳三姉子孫・佐藤福子氏と紹介を受けました。
ご挨拶方々、少しお話しをさせていただきましたが、
ここでは、土方歳三と小姓の市村鉄之助さんのことが一番相応しいのではないかと思い、お話しいたしました。



お話しを終え、テーブルに戻りますと皆さんから、素晴らしかったとのお言葉をいただき、びっくりでした。

会も終了に近づきますと、会場後方に展示された古写真の説明がございました。
明治2年の函館港を見下ろすパノラマ写真、明治初期の函館、旧幕府軍の肖像等。


(直会で展示されたパノラマ写真。明治2年)

以前、Kさんから
「函館の建物と街並みの変遷」という写真集を紹介いただいておりましたが、そこにパノラマ写真が10数点添付されておりました。
展示のパノラマも添付されておりましたが、これは箱舘戦争と同時期の函館を捉えており、「弁天台場」「称名寺」「実行寺」「旧幕府軍軍艦回天」「旧幕府軍軍艦蟠龍」なども見る事ができる大変貴重な写真でした。



閉会のあとは、ご子孫、新選組ファンの方々との記念写真大会となりましたが、本当に素晴らしい記念式典・偲ぶ会でした。
関係者の皆さま、本当にありがとうございました。



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昨日、ひの新選組まつり・隊士コンテストで、
16代ミスター土方に選ばれた笹田千尋さんが、
函館五稜郭祭の土方歳三コンテストで第三位になったとのご報告を兼ね、
ご挨拶にいらして下さいました。
おめでとうございました。

わざわざご挨拶に来ていただいたこと、大変嬉しく存じます。

「彦五郎さんに支えられた歳三さんをアピールしてきました」と
嬉しい言葉をいただきました。

函館五稜郭祭は、ひの新選組まつりのコンテストとは異なり、パフォーマンス重視だそうで、来年もまたチャレンジするそうです。
がんばってくださいね。



現行のHPはこちらです↓
佐藤彦五郎新選組資料館 HP

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3月29日(日)

『日野新選組ガイドがご案内する
新選組のふるさと歴史の道ウォーク
東光寺道と日野用水・・・土方歳三、佐藤彦五郎も参拝した
平町東照宮を訪ねる
家康公より拝領のご神体も公開

慶応元年4月17日に、平町の東照宮を参詣していることが、
佐藤彦五郎日記から判明しました。
歳三はここで何を祈り、何を誓ったのでしょうか。』

以上のような内容の、日野新選組ガイドの会が企画した歴史ウォークに
行って参りました。

約40名が参加しましたが
このウォーキングツアーの一番の目玉となっているものが
平家に代々伝わる、徳川家康公から拝領したご神体・黄金の宝貨の見学でした。

平 隆氏とは久しぶりにお会い致しまして、
有り難いことに、三度目のご神体拝観ができました。
また、父・昱が出版した「聞きがき新選組」の中には(P137)
祖父・仁が訪れて、「 この名主・平 一喜家の表庭には荘厳なる神殿がある・・・」と
書き残しており、まだ神殿を見る事が出来たことが伺えます。

お聞きした処、約40年前、老朽化のため、お父様が取り壊されたとの事、
彦五郎さんたちが寄付を集めて建立したものを、
況して、歳三さんもお参りしたのに、申し訳なかったと言われ、
私も彦五郎邸で痛感致しましたので、
個人で維持していくことは、とても困難なことですとお伝え致しました。
(※現在、ご神体等、諸事情により撮影禁止となっています)

また西玉神社参拝の折には、ガイド・芹川さんの平家にまつわる説明により
神殿裏屋根に徳川の御紋を見る事ができました。


西玉神社を参拝


屋根の裏側に葵の御紋

大蔵院では、勝沼戦争敗走後、新政府軍から追われた彦五郎が、
ノブと末娘のトモ(5歳)、下女と、暗闇の大蔵院裏の山を逃げましたが
この苦難を詠んだ
「雉子(きじ)鳴くや 躓く(つまずく)石に 残る闇」
俳句を残しています。


彦五郎らを匿った大蔵院


大蔵院の裏山。真夜中、尾根伝いに逃走した

帰りも幕末と同じように歩こうと、9名が賛同し6キロの道のりを戻りました。


自生のかたくりの花がたくさん咲いていました。
(帰り道、ガイド岡田さんの案内で)

雨の予報でしたが、降られることもなく無事に終えることができ、
いい春の一日となりました。



現行のHPはこちらです↓
佐藤彦五郎新選組資料館 HP

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